• 2017.04.17 Monday
  • 21:53


平成29年4月15日、午後8時5分。
父、紀夫が他界しました。
76歳でした。

昨年夏に腰椎を圧迫骨折し、入退院を繰り返しながら、ようやく自宅療養を開始した矢先でした。
朗らかな陽気の春を迎え、桜の花の満開とともに倒れ、散りゆく桜とともに旅立ちました。



4月10日に救急搬送されてから6日間、よく頑張ってくれたと思います。
おかげで、遠方から見舞いに訪れてくれた親族とも、会うことができました。

「これまでお疲れさまでした」という労いとともに、深い感謝を感じています。

親族一同高齢で遠方に住まわれているため、
通夜は行わず、一日だけの家族葬で見送ることをあわせて報告します。
よろしくお願いします。

エビ。


※なお、ここから先は、ただの長い独り言ですので、読み進めることはおすすめしません。
〜〜〜〜〜

昭和15年12月11日、茨城県水戸市に生まれた父は、中学を卒業後すぐに富士重工へ勤めに出ます。
しかしながら、自分より後から入ってきた高卒の新人が、自分よりも仕事ができないのに自分よりも高い給料をもらえることに納得がいかず、高校に入り直します。

高校卒業後は、小田急バス株式会社へと勤め、60歳で定年を迎えるまで勤め上げました。
小田急バス入社後、26歳で海老名市に家を買います。
平屋の一戸建てです。
最寄駅の小田急座間駅までは徒歩10分ほど。
腰椎ヘルニアや腎結石の手術にも負けず、雨の日も雪の日も歩き続けます。

昭和47年4月
31歳の時に、後に夫婦となる千代子さん(24歳)とお見合いします。
伊豆七島は新島出身の千代子さんは、朗らかで可愛らしくて一目惚れ…ってことにしておきます。
同年11月19日、二人はめでたく結婚。
披露宴はデパートで行い(当時はわりとスタンダードだったとか)、幸せな新婚旅行は、四国へ。
八十八ヶ所巡礼の旅…なんてするわけもなく、きっとスキップ混じりのウキウキ旅行です。

翌、昭和48年8月
長男和紀が誕生。
父親似の男の子です。
もう嬉しくって、自慢のcanonで写真をいっぱい撮りまくりです。

そして昭和50年1月
次男が誕生します。
どんな名前にしよっかなぁ〜と考えかけて、「あっ」と気がつきます。
「和紀の時に迷ったもう一個の方にしよう」
英紀と命名しました。
「二人目だし、写真は祝い事の時だけでいっか」と、ほんのり手をゆるめます。

男の子二人。
初めの頃はおとなしくて可愛かったのに、どんどんやかましくなって、おもちゃを取り合ってみたり、おかずを取り合ってみたり、しょうもないことで喧嘩するし、いろいろ面倒が増えます。

特に次男英紀は、飲みたいって言うから買ってあげたトマトジュースを口に含んだとたん
、「まずい」と言って泣き出すし、ガチャガチャで同じのダブって泣き出すし、新宿駅で迷子になるし、妻の故郷の海で溺れて死にかけるし、
自動車、バス、電車、船、飛行機と、あらゆる乗り物に酔って、毎回◯ロぶちまけるし、
すぐに◯ンコもらすし、まぁめんどくさいです。

そんな二人の子供たちが小学校に上がる頃、お隣さんが引っ越します。
「あっちは二階建てだし…」ってことで、思い切って購入。
いくら都心まで1時間弱の田舎とは言え、40歳を目前に二軒分の家の所有者に。
「もうお父さん頑張るしかねぇや」と、その頃から徐々に趣味のカメラからも遠ざかり、仕事一筋。
家族揃っての外食なんてもったいないし、旅行なんて考えもしません。
「盆暮正月の里帰りでいいでしょ」ってな具合。

ただし、どんなに家族のために奮闘してみたところで、子どもの反抗期は訪れます。

中学校に上がる頃から、徐々に会話はなくなっていき、
次男英紀は、夜中に友だちと遊びに行こうとしたり、遅くまで帰ってこなかったり、しょうもない奴になっていきます。
高校に上がったと思ったら、髪の毛くるくるパーマにした上に、脱色して金髪になって、インチキ外国人みたくなりやがるし、タバコ臭いし、「大丈夫か?」と心配になります。

その後、「どうにかこうにか二人とも大学まで出すことができたなぁ」と、一息つけるかと思いきや、次男英紀から就職の報告がありません。
「えっ?就職しないでどうすんの?」と、もう訳がわかりません。
「俺、中学出たら働いたぞ…、そんな時代なのか?」
「なんだか妻も最近調子よくないみたいだけど、うちは大丈夫だろうか?」
「まぁ、バイトはしているようだし様子見とするか…」と、諦めにも似た気持ちでしょうか。

夜型生活の英紀とは、ほとんど顔をあわせることもなく、何がやりたいのか腹を割って話す機会が設けられないまま、ある日、息子が演劇なんてものをやっているらしいと耳にします。

「演劇?」「お金になるの?」「暮らしていけるの?」「そしてなぜ言わない?」いろいろな疑問は浮かべども、一度覗いてみようと、足を運びます。
結果、「なんだかよくわからないが、夢中になっているならばそれもいいか」と、とりあえずは様子を見ることにします。
「30歳になる頃には、なにかしら変わるだろう」て、とこでしょうか。

平成13年12月
長年勤めた小田急バスを定年退職します。
「これまで妻を旅行に連れて行ってあげたのも、新婚旅行の四国と、銀婚旅行の北海道くらいだし、これからはもっといろんなところへ連れて行きたいなぁ」と、思った矢先でした。

平成16年5月
妻が病に倒れます。
救急車で大学病院に運ばれて、医師には「非常に危険な状態ですので覚悟しておいてください」といったことを聞かされます。

「なぜだ?」「なぜこんなことになるんだ?」「なぜ妻が?」目の前は真っ暗です。
妻は、全身が硬直し、震えて、言葉にならないうわごとを繰り返します。

それから数週間。
医師からは、「パーキンソン症」と告げられます。

「パーキンソンってなんだ!?」
調べれば調べるほどに気が滅入ります。
来る日も来る日も病院に通い続け、本当ならずっとそばにいてあげたいのに、毎日家路につきます。

やがて少しずつ病状も良化し、退院することができます。
ただしそれは、24時間見守る人が、これまでのように看護師や医師といったプロから、素人へと変わることでもあります。
病状が悪化すれば、また危険な状態へと陥るかもしれません。
それでも父は、妻を施設に預けることよりも自らのそばに置くことを選びます。
歳を重ねるごとに肉体は衰え、疲れは溜まり、苦しみも増します。
老齢介護を愚痴り合うような仲間もなく、独りで全てを抱え込む人でした。

訪問看護師や訪問リハビリの先生、ケアマネージャーさんや、自らの兄弟姉妹や、妻の姉、たまに愛娘を連れて見舞いに訪れてくれる甥子姪子といった人々が、心の支えになっていたと思います。

腰椎を骨折して、妻の介護が出来なくなって、生きる目的のようなものが急激にしぼんでしまったのか…。
それは、わかりません。

妻の病を眼前に、
「知る」「逃げない」「諦めない」
そう心に決め、ただそれだけで、13年。
ひたすらに妻の介護に明け暮れる日々でした。
入院中も、自宅に引き取ってからも、毎日休むことなく。
妻に寄り添った人でした。

父を病院から自宅に引き取り2日。
父の76年が、どんな人生だったのか気がかりでもありました。

だけど、先立たれたことを悲しんでくれる兄がいたり、家族葬と知りながらも参列させてもらえないかと電話してきてくれる会社の同期がいたり。
親戚筋だけでなく、ご近所さんや、お世話になったケアマネさんや看護師さんと、いろんな人が訪れて、線香をあげてくれて。

いい人生だったよね

と、勝手ながら思うんです。

76年お疲れさまでした。
人生を与えてくれてありがとう。
ゆっくりと休んでください。



海老澤英紀
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